私は音楽が好きだ。
それはたぶん間違いがない。だけど、それが表現することと交わると、そこに迷いが生まれる。
私にとって、表現することは非常に重要な命題である。
私は、自分の口を使って自分の思っていることをうまく言い表せない。自分の頭の中に広がっている世界を、誰かに理解してもらいたいという激しい熱がある。だけど、それをうまくできない。頭の中には伝えるべき言葉が流れているはずなのに、伝えようと口を開くとその言葉はどこかに消えてしまう。婉曲した表現ではない。本当に、消えてしまうのだ。伝えたい気持ちはたくさんあったはずなのに、そのほとんどは私の中で燻ったまま層を成してきた。
だから、私はどうにかしてそれを伝えるられないかとその術を必死に探してきた。
特に執着してきたのは、音楽だった。
高校生の時、初めて曲を書いた。私が世界に対して引っ込むことを覚え始めたころだった。私は、口を噤むことが増えたかわりに、曲を書くことで私の頭の中のものを表すことができるかもしれないとずっと期待してきた。
最近、曲をアコギでカバーしてアップロードし始めたのには、このことに関連したいくつかの理由があった。
一つはギターをうまくなりたいと思ったことである。曲を書き始めたのは17歳のときだったが、アコギを始めたのは15歳のことだった。しかも、その当時私の本職はエレキベースで、スラップ習得のため必死に練習をしていた。力の加減がわからなくて、高音弦をよく切った。どんな力でプルしていたのか、今となったらさっぱりわからない。
ともかく、そんなだから私は、ギターの習練が多分足りない。それで、色んな曲を練習しないといけないと思ったのが一つの理由である。
もう一つは、自分の感じている世界を誰かと共有したいからだ。私にとって、とても大切ないくつかの曲がある。私の代わりに喜び、私の代わりに悲しみ、私の代わりに怒り、私の代わりに嘆いてくれる音楽がある。そんな音楽を誰かと、特に私が繋がりたいと願う人達と、共有したいという強い熱望がある。私がどんな音楽を聴いているのかということを隈なく誰かに伝えることができたら、おそらくそれだけで私のほとんど全てを伝えることができる(少なくとも私はそう信じてきた)。それは、なんて素敵なことなのだろうとずっと夢想している。
これがもう一つの理由だ。このブログを始めたのも、一番の根っこの理由はここにある。私のことをあなたに知ってほしいと、私は切望している。ここは注釈が必要なのだけど、切望するだけじゃだめなのだろうと最近は考えている。知ってほしいと願うのなら、まずは私があなたを知ろうという姿勢が必要なのだろう。だから、このブログをやっているモチベーションのこの部分については、少し検討の必要がある。
ともあれ、この理由は、別に私がアコギで曲をカバーしなければならないという話にはならない。カラオケでもいい話だ。実際、私はカラオケでもいいと思っている。ともかく、自分がこれだと思っている音楽を、あなたと共有したいと思っている、いや、そう思い続けている。
一方で、私は、他人の曲を弾くことがそれほど好きではない。誰かの魂がこもった曲を、その誰かよりもホットに演奏することは、「論理的に不可能」だと感じている。無論、実際のところ、クラシックやジャズでは誰かの書いた曲を自分なりに演奏することが多々あるわけだから、「論理的に不可能」というその論理は崩れている。要は自分の技能が足りていないだけなのだろう。
私は、技能が中途半端だからこそ、容易に自分を表せる曲作りに逃げてきたともいえるかもしれない。そして、同時に、技能が中途半端だからこそ、私はここに来てこれ以上私に表せるものがないと感じている。心の中にある私の世界を表現するには、私の音楽スキルはあまりに不十分すぎる。
「だから」、最近の私は文章を書くことに凝っている。
言葉にこだわるときは、こちらのブログではなく、縦書きにフォーカスしたサイトを使っている。
最近は特に色々と考えることが多かったから、そちらの更新回数が多かった。考えなければならないことが山程あるし、ほっといてもこの厄介な頭はいつも何かを考えている。
https://satsumage81.goat.me/uGTf3s5Wrm
https://satsumage81.goat.me/uUenkDKgiA
https://satsumage81.goat.me/uXyuSpLXWM
この傾向は決して悪いことではないと思うのだけど、ここまで書いてみて、また私は逃げているのだなと感じている。音楽がだめだから文章に、文章がだめだから音楽にというのは、続けても堂々巡りが続くだけのように思えてきた。
私は二兎追う必要があるのかもしれない。いや、全ての兎を追い続けないといけないのかもしれない。最近読んだ本では愛という人生における最も崇高な技術について、人生を通して修練する決意が必要だというようなことが書かれていた。表現についてもきっとそうなのだろう。自分の中にある「それ」を具現化するために、ありとあらゆる手段のなかから最善のものを身に着けていかないといけない。
それは、明日私がやらないといけないタスクではない。それは、私が人生を通して取り組むべきテーマなのだろうと思う。
そうであるならば、重要なことは私がそれを楽しめるか否かなんだろうなと思う。
今日、一人でカラオケに行ってこんなことを考えていた。
割と後ろ向きな気持ちでブログを書き始めたとき、部屋で映画を見始めていたのだけど、それがとても素敵な映画(二度目だったのだけど)で、おかげで文章がポジティブな着地を迎えたと思う。感謝している。
「グリーンブック」(2019年日本公開)
ドクの音楽への姿勢と生真面目な彼が極めて世俗的なドライバーと旅をする中でお互いに現れる変化に心が温かくなった。優しい映画だと思う。