あけましておめでとうございます。本年もウミネコの活動をどうぞよろしくお願いいたします。
この正月は、気仙沼で迎えた。久々に青春18切符を使ってのローカル線での我孫子からの電車での長旅。
最近、本当に考えていることをこういうブログで文として形に残すことを少し億劫に感じる。「本当に考えていること」を形に残すのは易しくない。言葉の選び方ひとつで本来残したかった気持ちとは全く別のものが残ってしまうかもしれない。そう考えると腰が重くなる。
とはいえ、ライブ参戦や大中小問わず旅に出たということを、やがては霞みゆく記憶のなかから拾い上げるためにはどこかに書き残す必要がある。ブログじゃなくて紙の日記でも良いだろうというのはごもっともであるが、私という人間は怠惰でありまた同時に完璧主義的傾向もある(あるいは完璧主義的傾向であるがゆえに怠惰なのかもしれないともすこし思う)。そんな訳で日記は続かないし、続かない日記帳は早々にゴミ箱へ送られることになる。また同時に私は、自己顕示欲の強い人間でもある。となればブログに残す、というのはなかなか向いているものだと思う。
閑話休題。
今年の正月を東北、それも気仙沼で迎えることを決めたのは、2021年11月だったと思う。毎年正月は両親・姉と祖母の住む名古屋で過ごしていた。ただ、まあ、私ももう30歳。自分の思うように年を越してみようと思ったのがきっかけだった。
目的地を東北に定めたのには2つ理由がある。
ひとつは、私が2月に引っ越してきた我孫子という街は常磐線沿線。常磐線は上野から仙台まで(途切れ途切れではあるが)続く。正確には岩沼―仙台間は東北本線への乗り入れだけれど。それはともかく、ひとつの路線で東京・千葉・茨城・福島を経由し、仙台のすぐ近くまで行くことができる路線であるのは間違いない。だから辿ってみたかった。
もうひとつは、30歳を迎えた2021年は2011年の10年後であったこと。私は東北出身ではないし、当時住んでいたわけでもない。だけど、今もあの3月のテレビに映し出されていた映像は鮮明に記憶に残っている。記憶に残っているということは、何か私に影響している部分もあるのかもしれない。そんなことを考えてというのもある。
もっとも、ふたつ目については後付と言ってもいいかもしれない。決して私は、震災復興を願ってというお題目で「被災地」を「視察」に行ったつもりはない。あのとき目にした地域が今どうなっているか。それを目にして、「私が」何を思うか、それを少し確かめたかったのかもしれない。至って、利己的な発想である。
村上春樹の短編集に「神の子どもたちはみな踊る」というものがある。私の好きな短編集の一つであるが、一貫したテーマがあり、それは阪神淡路大震災という大災害はそこに住まない人たちの何気ない生活にすら、少しずつ影響しているのではないかという問いかけのようなものだった。
阪神淡路のとき、私は4歳だった。だから、記憶には残っていない。だけど、東日本大震災のときは20歳だった。それから10年が経つ。「どう影響したか」と聞かれるとうまく答えられないのだけれど、この10年の私の生活、それは楽よりは苦が多かったわけだが、そこにどんな形であれ影響したことは間違いのない事実だと考えている。
だから、それを肌で感じてみたかった。
勿論、見つけられなければそれでいい。「自分探しの旅」という壮大なお題目の多くは空振りに終わること、探している自分自身が旅中自分に付きまとってくること。これはこの10年の時間のなかで学んだことのひとつである。だけど、じゃあ何も得るものがないのかと聞かれればそうではないと思う。
どこかに行く。何かを見る。何かを聞く。何かを感じる。どんなに阿房らしいものであれ、その経験は私の人間を構成する要素のひとつにはなっている筈だと思っている。
正直、旅から帰ってきた今の私は何を手にし、或いは何を向こうに置いてきたのかわかっていない。だけど、とりあえず旅のことを簡単に書いておこうと思う。
飽くまで備忘録として。いつか読み返す私や、或いは私以外の誰かが何かを見つけてくれるかもしれない。それは、今のところは期待に留めておく。
出発地点はJR常磐線我孫子駅。故に終着地点も同じである。上の写真を見てもらうとわかると思うが、帰り道に敢えて上野を入れた。これで、行きと帰りを合わせればひとつの旅で常磐線を端から端まで辿ったといえる。今回の旅で満足していることのひとつはこれだ。
2021年12月30日
1日目(12月30日)から旅を遡る。
我孫子駅でいつもの通勤列車に乗った私だが、当然途中で昼飯を食べる必要がある。停車駅と到着時間を眺めながら果たしてどこで飯を食べるか考えた。
すると、ひとつの駅名が目に入った。「勿来(なこそ)」、すなわち「来ること勿かれ」ということだ。来るなと、そうはっきり言われると無性に立ち寄りたくなる。これは人の性なのだろう、仕方あるまい。スマホで調べると、少なくとも食堂はある。まだ大晦日の前日でもあるし、どうにかなるだろう。ということで最初の途中下車は勿来に決まった。
勿来到着までに少し情報を集めてみる。すると、勿来という地名に関わり深いと思われるものが地図アプリ上で見つかった。それが、「勿来の関跡」。来るなという関。関はそもそも人を通すためのもの。そこに来るなというのはとんだへそ曲がりだなと思い、非常に興味が湧いた。そこで、勿来駅途中下車の主目的を昼飯から勿来の関跡の訪問に変更。昼飯は駅前のいかにもローカルなレストランのミートソーススパゲティで済ませ、関跡へ向かう。
Google Mapで経路を調べるときに気をつけないといけないことがある。それは、「通りやすい道であるか」と「標高差はないか」ということである。航空写真までチェックすれば結構カバーできるのだが、今回の旅の初日も初日ということで、油断していたところもあったと思う。
今回の場合、勿来の関跡はなかなかの高台にあった。今回の旅の準備にあたり、そもそも寒い地域へ向かうこと、またニュースで年末年始に向け強い冬型の気圧配置となると聞いていたこと、これらから防寒の準備ばかりしていた。そんなわけで、勿来の関跡にたどり着く頃には、かなり汗をかく羽目になっていた。鉄道旅で荷物を減らしていたので着替えもそれほどない。少し後悔した。
しかし、これがなかなか良いスポットだった。通り過ぎる人もわずか。高台でありかつ海岸線にも近いがゆえに眺めも良好。資料館があったから入ったが、勿来の関は、その漢字の意味や(おそらくは)言葉の響きから、和歌でも広く使われていたとのこと。もっとも、古代の和歌に使われる「なこその関」という言葉がこの福島の「勿来の関跡」であるかについては諸説あるとのことだが。
また、この勿来の関跡は源頼朝の先祖でもある源義家やそれより昔の征夷大将軍・坂上田村麻呂とも関係があるとかないとか。古くは蝦夷の土地であった東北を和人が征服する、その歴史とも関わりのある関だった模様。
とにかく、なかなか興味深いスポットに立ち寄れて満足感も大きかった。そういえば、勿来駅から関跡へ向かう途中、地図上には「風船爆弾発射台跡」のような文字もあった気がする。かつての太平洋戦争でのおろかな試みのひとつでもあり、見たかったし、かなり近くを歩いたようなのだが、行きも帰りも入り口がわからなかった。
1日目の途中下車は、主にここのみ(いわきでも改札は出たが、特にどこにも行かなかった)。あとは仙台に到着し、ビックカメラで用意し忘れた旅行用の充電器を購入し、何を食べて良いものか思いつかなかったので、半ば義務的に牛タンを食べ、ホテルで眠りについた。この眠りのなか、色々考えさせられる夢を見たのだが、まあそれはまた別の機会に。
2020年12月31日
2日目。大晦日である。前述の通り、意味深そうな夢から目を醒まし、ホテルで朝食をとり、早々に仙台を発つ。
この日は仙石線で石巻駅へ行き、そこから女川を訪ね、その後気仙沼線で移動し気仙沼のホテルに宿泊する予定であり、実際そんな感じの一日だった。
石巻駅へは仙石東北ラインの快速で移動。写真の通り、今回仙台駅から乗ったのは「ハイブリッド・トレイン」。要するに、ディーゼル駆動であり、その過程で発電をして蓄電池に電気を蓄え、燃料の使用を減らす、という仕組み。なのだと思う。しかし、この「仙石東北ライン」、ただの快速かと思いきや、なかなか複雑な路線だった。仙石線とは止まる駅が異なっているので利用する場合は注意が必要だと思う。
変な夢を見てしまったこともあり、仙石東北ラインではうたた寝。あっという間に石巻に到着した。そこからは仙石線の普通列車で女川駅まで。これは2車両のいかにも鉄道旅な素敵な列車だった。
そして、女川駅に到着。
女川駅前はとてもきれいに整備されていた。駅からほんの少し行くと、商店街、というよりも小さなショッピングモールのようなエリアが広がり、その向こうに海がある。海はとても静かで、かつてこの海がその街の多くのもの、あるいはたくさんの人を押し流したとは到底思えない。大晦日で多くの店が閉まっていたこともあり、人数は少なく静か。前夜の仙台の喧騒がまだ耳に残っていたのも相まって、海の独特の静けさがより強調されるようでもあった。
女川の漁港の脇には旧女川交番遺構があった。震災で建物が流される映像は、その当時本当にたくさん見て、今もその映像は記憶に焼き付いている。この交番も基礎のコンクリート杭がそのまま引き抜かれる形で横転していて、あの津波がどれだけの力を持っていたか、改めて感じさせる。
女川では、新たな街づくりを若い世代に任せるといったことや、中学生の提案を町が受け入れ実現するなど、復興にあたっては新しい町として生きていくための色々な取り組みがあったと、この遺構の周辺の展示に記録されていた。失ったものは計り知れず、最早取り戻せない。そこには茫漠な悲しみがあり、それは、ある意味では決して癒えるものではないと思う。だけど、その中でまた得られたこと、変えられたこと、そういったことがあったというのは、震災復興ということだけではなく、より一般的に言えることだろうと思う。
と、まあ真面目なことも考えていたのだが、女川到着前の電車の中では、昼食のことを考えていた。どこかの店で穴子天丼が食べられると調べた記憶がある(穴子丼だったかもしれない)。大晦日だしそれくらいの贅沢をしてもよいだろうと、楽しみにしていたのだが、駅前のモールを歩いて諦めた。大晦日だからこそ、開いている店がほとんどない。やっているのは鮮魚を売っている店だけでそこの食堂も、予約分の弁当のみの営業だった。
そりゃそうだ。大晦日だもの。女川は悪くない。そして、大晦日に女川に行くことを決めた私も悪くない。誰も悪くない。だけど腹は減る。近くにコンビニが見える。だけど、何となくここまで来てコンビニというのも、とはさすがの私も思う。
とりあえず、鮮魚の店でなにか食べられるものはないか探すことにした。と、入り口ですぐに見つける。浜焼きを売っている。米は手に入らなさそうだが、とりあえず動物性蛋白質は摂取できそうだ。ということで、牡蠣を3つ、イカのぽっぽ焼きを2杯購入して食べた。勿論うまかった。が、この後の旅程で私が取った選択肢の結果もあり、このあと私はひどく腹をすかせることになる。
このあと、どういう意思決定プロセスを働かせたかよく覚えていないのだけど、隣駅の浦宿まで歩くことにした。まあ、勿来で降りたのとそう変わらないと思うのだが。
それと、いつも遠出をするとそうなのだが、観光客を待ち受けているスポットだけ回っても、なんとなくそれは日々の暮らしの中でエンターテイメントを摂取しているのと変わらず、それはそれで楽しい旅行だと思う一方で、それほど非日常に触れているとは感じられない。非日常を私が感じるのは、全く知らない土地の全く知らない人たちの日常のなかに自分が潜り込むときである。
そういった意味で、女川駅は整備されていて、人を迎え入れる準備のできている(素敵な)駅であった。だけど、せっかくだから、構えていないこの町を見てみたい。そんなことを考えていたのかも知れない。薄れゆく記憶については幾らでも脚色を加えることができる。こんなきれいな理由付けなどまるでなく、或いは、ただの意地みたいなものだったかも知れない。
ともかく、歩いた。隣駅の浦宿に向かうためには、一度女川漁港の海を離れ、陸地を渡らないといけない。浦宿の目の前は、万石浦とよばれる海跡湖(浜名湖もそれかな)があるが、これは女川漁港とは反対側だ。文章で説明するのが難しいが、要するにあれがリアス式海岸だったんだろう。
距離は、歩いて30分程度。今度は、Google Mapの航空写真も確認したので、それほど険しい道でもない。
ただ、寒かった。その日の最高気温は、確かな記憶ではないのだが、0~3℃くらいだった気がする。向かい風で積もってはいないが雪も降っている。そのなかの歩いて30分はなかなか応える。
2日目にして、「寒いとき、寒いところへ」という副題をつけた自分を呪い始めていた。
ともあれ、浦宿駅に到着。あとは宿のある気仙沼に移動すれば一日が終わる。浦宿駅から仙石線で前谷地駅に移動する(行きの仙石東北ラインとは止まった駅が全然違ったはずなのだが寒さにやられてそこまで頭が回らなかった)。
ここからは、気仙沼線BRT(Bus Rapid Transit)に乗り換える。
BRTというのは要するにバスなのだが、旧気仙沼線の鉄道路線跡をそのまま専用道路にしているため、一般的なバスと異なり、運行時間のぶれがかなり少ないのが特徴なのだと思う。もちろん、場所により一般道にも入るため、鉄道よりは不確実要素が多いのは事実なのだろうが。
ともあれ、寒さに疲れた私はぼんやりとバスに揺られた。石巻近辺から南三陸町を通過し、気仙沼へ向かう。途中、しずはまという駅(バスとはいえBRTは鉄道扱いなので、駅である)とうたつという駅が続き、静寂と歌という駅名に何となく心惹かれたが、さすがに日も落ちた何も知らぬ町、しかも気仙沼線の本数も少ないとくれば、そういうときに無茶をする私ではない。あと、とにかく寒かったから外に出たくなかった。これでは本末転倒ではないかとも思うが、この旅で大切なことを学んだ。「寒いとき、寒いところへ」が意味することは「めっちゃ寒い」ということだ。
BRTはその運行を見ているのが面白かった。言ってしまえば単線列車と同じな訳であるが、専用道路が一車線のため、バスのすれ違いのタイミングを調整するため、要所要所に赤信号が設置され、発車のタイミングが制御されている。鉄道と比べると一般道という不確実な要素が加わるわけだから、制御システムは少しむずかしいんだろうなと、ぼんやり思った。
BRTに乗っている時間は思ったより長かった(上の方で示したGoogle Earthの画像を見ていただければわかると思う)が、独特の雰囲気をもつBRTの専用道路をぼんやり眺めているうちに、目的地に到着した。
この日泊まる宿は南気仙沼駅から徒歩数分、気仙沼漁港を目の前に構えるホテルである。事前の算段では、気仙沼の街でどうにか地元の店で大晦日もやっているところを見つけ出してそこで夕飯と考えていたのだが、最早このとき私は寒さに心が折れていた。ましてや、昼飯のときの経験もある。大晦日に街の定食屋なりなんなりで食べ物を得られる確証がなく、寒風に晒されるのはきつい。実際、後述する通り、この晩は(地元民からするとどの程度か知らないが、少なくとも関東平野育ちにとっては)大雪が降り、翌朝目を覚ますとホテルの窓からの景色は一面雪景色となっているくらいだった。
そんなわけで、私のしょうもない旅の美学にはそぐわないのだが、晩ごはんはホテルのレストランで済ませることにした。ホテルは温泉付きである。これも私の美学にはそぐわないのだが、露天風呂には入らなかった。というか、ホテルの内湯がすでに換気しているためにものすごく寒く、これ以上寒いところへ全裸で繰り出す理由を見つけることができなかった。
そして、23時に健全に(睡眠薬を飲んで)就寝し、例年通りなんとも言えぬ2021年は幕を閉じた。
2022年1月1日
やたら2が多い年が始まる。私は人生で初めての初日の出を見るため、やや早起きした。とはいえ、6時台だから、平日とそう変わらないくらいだが。カーテンを開ける。
すると、目に飛び込んだのは一面の雪だった。私は迷う。外は絶対に寒い。ホテルの入口は坂道だったから雪で絶対滑る。初日の出を諦める理由は幾らでもあった。だけど、なんとなくここでやめてしまうのもつまらない。空は一応晴れているし、見られなかったら見られなかったで土産話くらいにはなる。めちゃくちゃ寒ければ逃げ帰ればよい。
それくらいの気持ちで、ただし、背中と足首に、それぞれ(ヒートテックの上から)ホッカイロを貼り、外に出た。そこまでやると意外と寒くない。
しかし、初日の出の時間が迫る中、別の問題が生じた。
昨晩は陽が落ちたあとの到着だったから気が付かなかったのだが、日の出をみるつもりだった漁港には漁船が隙間なく並んでいて、水平線を見ることが難しい。もっとも、前日に下の写真を撮っていたから、そこまで考えが及ばなかったのは手落ちだった。また、これだけでなく、漁港の向こうに山が見えるというのも想定外ではあった。これがリアス式海岸かと思い知らされた30歳の正月である。
ここから初日の出スポット探しが始まる。要は漁港沿いに空の明るみを見ながら水平線を望める地点を探して雪上をうろうろとしていた訳だが、これは文にしても仕方がないので数枚の写真を掲載しておこうと思う。30歳の男がひとり、寒い海岸をうろうろしている姿を、(もし必要があれば)想像していただければと思う。
見返すと、最後の1枚などなかなか良かったと思う。
この旅では、使うところはちゃんと金を使おうというスタンスで居た。なので、朝ごはんはホテルの立派な朝食。ひとり暮らしだが、このホテルのおかげでおせち料理や、雑煮も堪能できた。雑煮はこれまで両親の影響で名古屋の雑煮しか食べたことなかったが、三陸の雑煮を体験することができた。名古屋の雑煮はその土地柄に似つかず至ってシンプルなのだが(これは失礼だろうか)、三陸の雑煮は少し塩味が強い気がした(私の舌はあまり信頼せず、ぜひ一度ご自分で味わいに)。具は名古屋より豪勢だった。
さて、朝食を食べたらこの日は福島県泉崎村の公営の温泉付き宿泊施設へ。一日中、電車に乗って移動する計画。なのだが、如何せん東・北日本を襲う寒波の中、暴風雪の影響で鉄道に支障が出て無事にたどり着けないのではないかと不安がある。
つまり、急いで移動しないといけない。雪道を歩きなれない関東平野人が海岸沿いのホテルから丘の上の気仙沼駅までの距離(Google Mapでは徒歩30分程度と出る)を歩くのには時間と、転倒の危険も少しある。であればタクシーか。
と、思ったのだけれど、そこはなんというか自分らしい決心であるのだが、結局徒歩で行くことにした。幸いにも降雪は夜中でまだ溶け始めていないし、踏まれて滑りやすくもなっては居ない(これは初日の出探しに出たからこそ得られた知見だ)。だからたぶん、それほど歩くのも危なくはないだろう。
というわけで気仙沼駅まで歩く。
歩いていてわかったのだが、気仙沼漁港から気仙沼駅まで歩くと、意外と坂を登っていくことになる。つまり、津波の被害を受けたエリアとそうではないエリアの違いが大きい。ホテル近辺の津波の被害を受けた漁港エリアを抜けて気仙沼駅近辺に到着すると、古くからであろう町並みに景色が変わるのがよくわかる。
さて、この日は気仙沼駅から大船渡線で一ノ関へ抜け、そこから東北本線で小牛田・仙台・福島・郡山と乗り換え、泉崎駅で降りる。移動距離もなかなかあるので、元々途中下車も観光もそれほど考えてはいない旅程である。さらに、鉄道のダイヤ乱れで気が気ではなかったこともあり、あまり写真もない。
鉄道に乗っている間でいうと、一ノ関~小牛田と仙台~福島~郡山のあたりは少し山を越えることもあり、雪の勢いも強かった気がする。下の写真は郡山駅で撮った。雪国の列車という感じがしてよい。
とにかく雪ばかり見ながら、列車内のアナウンスを気にかけながら、ずっと列車に乗っていた元日だった。と書くと悲劇的に聞こえるのかもしれない。だけど、そういうのが意外と嫌いではない。だからこういう旅をするのだろう。列車の窓から見える景色は常に非日常。こちらから何かを求める必要がない。
泉崎駅にはほぼ、予定通りに到着。そこから、またタクシーを使えばいいものを、街灯のない田舎のしかもまだ少し雪の残る道をひとりぽつりぽつりと歩く。たぶん、旅で楽をすることに、とりわけ旅の移動手段に楽をすることに、一定の罪悪感を覚えるのだと思う。しかし、チェックインぎりぎりになってしまったので歩いている途中で宿から電話がきた。余計な心配をかけさせたのは申し訳なかったと思う。
ちなみに、先に述べておくがこの翌日の1月2日の小山駅~上野駅、上野駅~我孫子駅の移動にはグリーン車を使っている。これもまた習性のようなもので、旅の終わりはグリーン車で少し楽をして旅を閉じる、ということもある。矛盾しているように見えるかもしれないが、私としてはよくやる手法である。
さて、宿だが、事前に電話で夕食を予約できるか聞いたときには、①4000円かかること、②おでんしか出せないこと、という情報をもらっていた(、と理解している)ものだから、4000円のおでんとは、どれほど豪勢なおでんなのだろうと、少しわくわくしていたのだが、実際に食事の席につくと、普通に豪勢な夕飯にありつくこととなった。そして、おでんはなかった。そのうち、4000円のおでんを食べてみたいと思う。
こうして、2022年の元日は無事終わった。
2022年1月2日
先に書いておくが、最終日はさしたることは特になかった。勿論、個人的な旅のこだわりは残しておいたが。
満足な朝食を宿でいただいたあと、今日も徒歩で泉崎駅に向かう。本来、このまま東北本線で移動して最短距離を行けば、10時に宿を発って、14時には自宅にたどり着けるくらいの位置関係である。
ただ、ここで欲が出る。それは水郡線に乗ってみたいということだ。郡山と水戸を結ぶ水郡線、おそらくだが、袋田の滝に行きたくでもならない限り、使う機会もないだろう。
そこで、一度東北本線を郡山駅まで戻り、そこから水郡線に乗ることとした。
さらに、もうひとつ欲がわく。今回の旅のなかで、常磐線をフルコンプリートしたいということだ。本来、水郡線で水戸まで行けばそこから我孫子までは、常磐線1本でさらりと帰れてしまう。だが、そうなると上野~我孫子間について、この旅では乗らなかったことになってしまう。無論、水戸→上野→我孫子という常磐線折返しという禁じ手を取ることもできる。が、ここまできれいに鉄道旅を楽しんできたこの旅の最後に泥を塗るような行為はしたくない。
となると、私が取ることができる選択肢は唯ひとつだけである。それは、水戸から水戸線に乗り小山(栃木県)まで移動し、そこから宇都宮線に乗り、それで上野へ向かうということである。
さて、水郡線は本数も少ないので郡山の街で少し時間を潰した後、早速水郡線に乗る。
これがあまり楽しくなかった。というのは、ひとつにはダイヤが絶妙に乱れていて次の乗り継ぎが間に合うか「微妙なライン」だったこと。諦めがつくくらいしっかり遅れてくれればそのつもりでこちらも対策を取るが、そこまでは遅れていない。おかげで小山につくまで2回ほど乗り継ぎがあったがほとんど写真は撮らなかった。
もうひとつは、思っていたより混んでいたことである。前にも少し触れたが、途中に観光地袋田の滝などもある。東北の静かであまり人の乗っていない列車に馴染んでいた私は、この混み具合が少し気に食わなかった。
然して、無事に郡山~水戸間を移動し、小山にたどり着き、ここからグリーン車を2本乗り継いで、小山~上野~我孫子と列車に乗り、改札を抜け、私の今回の旅は終わった。
さて、今回の海猫阿房旅もこれにて終結。人によっては、結局何をやっていたの?と疑問に思われることもあるのかもしれないが、色々ありつつ結果的に行ってよかったなと個人的には満足している。
青春18切符はあと1回分余りがある。さて、どう調理してやろうか。