好きな日本人作家の話

  • 2021年10月24日
  • 読書

個人的な話になるが、昨年夏頃から読書習慣が7年ぶりくらいに復活した私は、ようやく日本の文学作品を多少なりとも広く読むようになった。

私は音楽でも読書でも基本的には、誰か1人(もしくは1グループ)に猛烈にはまり、その人(グループ)に影響を与えたものに派生していく形で趣味の幅を広げる。だから、ジャンルだったり年代だったり、客観的な分類で話を始めるとうまく入っていけないことが多い。

読書については、特に村上春樹作品によく登場するフィッツジェラルドのようなアメリカの作家の方面で広げてきたように思う。

それが、最近改めて村上作品だったり関連作品だったりを読み直していた中で、ようやく夏目漱石に辿り着き、日本文学を色々と楽しみたいと考えている状況が現在である。

まずは夏目漱石の話をする前に、内田百閒について。

村上春樹「1Q84」の中で天吾が病室で眠り続ける(そして不和でもある)父に向けて淡々と読み聞かせをする場面の中で登場する「東京日記」という小品集からの一節が何となく強烈な印象を与えてきた。最初はその文の出典がわからなかったところから頑張ってこの作品を探し出してきて、読んでみて大好きになった。個人的には、「百鬼園随筆」、「御馳走帖」で見せるへそ曲がりの頑固な厄介者な姿や「ノラや」で見せる可愛らしさなどもまた、随筆を通じて見ることができた百閒先生の姿であり、この作家に強い親しみを覚えることとなった。

明治の終わりに岡山県に生まれ、昭和の終わりまで生きた作家。夏目漱石の大ファンとして帝大入学と共に上京し、芥川龍之介に背中を押されてプロの小説家になったらしい。

本当にその素直な日本語の使い方が印象的で、とても好感の持てる作家だと思う。

さて、話を夏目漱石に戻す。夏目漱石を手に取ったのは複数の要因からだった。

一つは、内田百閒。上述のとおりであるが、彼は夏目漱石の大ファンであり弟子でもある。

もう一つは、「海辺のカフカ」。主人公の少年が高松の図書館で夏目漱石の「坑夫」を読む場面がある。

さらにもう一つが、芥川龍之介。新潮社が「芥川龍之介短篇集」(ジェイ・ルーピン編)という、英語話者向けに海外で発売されたものを「逆輸入」したものがあるのだけど、その序文を村上春樹が書いているということで手に取っていた。そして、芥川龍之介は内田百閒の親友であり、夏目漱石の一門である。

人間として一癖も二癖もある内田百閒と芥川龍之介が師事し、家出をした中学生が少し不思議な空気のある図書館で選んで読むことを決めた作家でもある夏目漱石、これは読まざるを得ないと思い手に取ることにした。上述のように内田百閒を好きになったプロセスを通じて感じていたのだが(あるいは、村上春樹作品を収集するなかでも思ったのだが)、短編集というのはその作家の人間性を肌で感じるのに良い機会だというのは私が得た経験則の一つなのであり、そのため夏目漱石についてもまずは短編をと思った。

それで手に取ったのが、新潮文庫「文鳥・夢十夜」。これに所蔵される「文鳥」を読んで、手っ取り早く言って親近感を覚えた。生きることへの後ろめたさとか、自分を客観的に映し出したときの醜さとか、そういうことをその短い文の中に丁寧に詰め込んだところがすごく好きで、それ以来少しずつ漱石作品を読み進めている。

また、最近読み始めた別の日本人作家でいえば、志賀直哉だが、これは私生活の中で引越をして、新しく住むようになった土地が千葉県我孫子市であり、そこが志賀直哉も属した白樺派の一時期の拠点であったことによる。「暗夜行路」の主人公に自分を重ねられる部分もあって、それでここのところ読み始めた。

また別の好きな日本人作家で言えば、遠藤周作

彼については、読み始めた明確なきっかけは覚えていないのだけど、書店を物色していたときにたまたま「海と毒薬」を目にしたのだと思う。文庫版の表紙とタイトルのセンセーショナルなところ、そして裏表紙の短い説明に惹かれて読んだのが初めてだったと思う。

これも主人公の、大きな流れの中に置かれたかつての自分の無力さと罪悪感を抱え続けながらも、これらに向き合えない醜い弱々しさに共感を覚えてそれ以来手に取るようになった作家である(この主人公の悲しい人生は「悲しみの歌」という小説でも描かれる)。「留学」、「沈黙」、「」といった小説でも、こうした無力感・罪悪感・後ろめたさが主人公たちの共通項となる。

遠藤周作は、戦後の文学史の中で「第3の新人」という分類のされ方をする。

最近、私にしてはめずらしくこの客観的な分類に基づいていろいろな作家の短編集を漁っている。

このことについてもまた村上春樹の影響があるのだが、それについては次の記事で書こうと思う。

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