村上春樹「海辺のカフカ」再読。
読み終えて一日考えたことのメモ(FBに書いたこと)。読み終えてすぐの感想はその下に長々と。
昨日、村上春樹「海辺のカフカ」を読了し、色々なことを考えた。ここのところ、自分のこととして考えていたこととクロスし、中々身のある思索になっている気がする。
「海辺のカフカ」の主題は、とにかく「大人になること」である。
大人になること、子供ではなくなることとは何か。
この小説で描かれるそれは、両親や育った環境に対する受動的な態度を、それら全てを含めて自分自身であると受け入れる(=主体的な態度)ことなのではないかと思った。両親や育ち、というのは子供が選べないものである。しかし、それがどんなものであれ、人間は大人になっていく。そのときに、自分が受け取ってきたもの(善きものにせよ悪しきものにせよ)を、自分で選び、認め、許し、受け入れることが必要になるのではないかと考えた。
また同時に、大人になることとは、河の向こう岸に見える「理想の自分」を追い求める姿勢から、こちら岸の自分と向き合う姿勢に変わることではないかと思う。どこかにあるかもしれない理想の自分を手探りで探す年齢ではもうないのだろう。こちら側の、この世界に立つこの自分という存在を、選び、認め、許し、受け入れる儀式もまた大人になるということなのではないかと思う。
こう考えると、20歳を迎えて既に9年半近くが経つ私も、ずっと子供のままだったのだと思う。長らく小学生の頃からの延長線にいた気がする。
自然発生的に生じた自分という存在を、自分の意志で受容する。自分が認めた存在として再定義する。それが大人になる、ということなのかもしれないと考えていた。
そんな日曜日。
以下、読み終えた昨日勢いで書いた長い感想。
気になるところに付箋を貼ってみたら、高校時代の英単語集みたいになってしまった。
おそらく、20歳ごろ、人生で初めて読んだ村上春樹の小説だったのではないかと思う。当時は、この小説の意味がよくわからなかった。格別、表現が難しいわけではない。起きていることはなんとなくわかる。何かのメタファーとなっていることはわかる。何かを伝えようとしているのはわかる。だけど、それが何かわからなかった。
今回は、意を決しての再読。丁寧に読むことにした。また、あれからほぼ10年が経つ、というのもある。何となくこの小説の伝えるところがわかった気がする。今、改めて読み終えて、この小説は何と勇気を与えてくれる物語なのだろうと感動している。
以下の内容はネタバレになる部分もあるかもしれない(18年前の小説ではあるが)ので、ご注意を。
この小説は15歳の一人の少年が大人になる物語なのだと思う。
田村カフカ少年は、孤独だった。母親は彼が4歳のときに、彼を捨てて出ていった。父親は、些かエキセントリックなところのある人間で、歪んだ思想を子であるカフカ少年に刷り込んできた。
カフカ少年は、15歳を迎える日に家を出る。父親に植え付けられた呪いから逃れるため、中野区野方から四国へと、旅に出る。しかし、物理的な距離は彼をその呪いから逃してはくれない。また、旅先の高松の地で、彼は自分の心の中にある母親を求める愛情への欲求と向き合うこととなる。「母親に捨てられた」という事実もまた、カフカ少年の心に呪いとして刻まれる。
これが、物語の大筋であり、この小説で示される「大人になること」とは、「父親の呪いを断ち、自分を捨てた母親を許すこと」なのだろうと思う。そして、それらは、両親によって与えられた自分という存在に一つの区切りをつけ、自分自身で選び定義したところの自分という存在を手にすることなのだろうと思う。
佐伯さんも、ナカタさんも、カフカ少年と同じくその森の奥にある特別な場所を訪れた。しかし、彼らはそこに自分の影の半分や言葉、希望といった大切なものを置いてきてしまった。きっと、この「特別な場所」は、自分自身のアイデンティティとでも呼べるものなのだと思う。佐伯さんとナカタさんは、自分を守るため、その場所に自分自身の大切なものをそこに置いてきてしまった。おそらくナカタさんは、両親からの強いプレッシャーから身を守るため、また佐伯さんは、あまりにもその当時で既に完結してしまっていた自分の愛や生活が外的世界により損なわれることに恐れすぎるがゆえに。
彼らは、「うまく大人になることができなかった大人」たちなのだろうと思う。カフカ少年の父親は、あるいはそういうものを見ることすら叶わなかった、つまり自分自身のアイデンティティをうまく育めなかった人なのかもしれない。
カフカ少年は森の奥のその場所を訪れ、そこで自分の内側の母親と向き合い、彼女を許す。そして、彼女を心に抱いたまま、現実の世界を生きる決心をする。この決心が大人になることなのだと思う。また同時に、そこにたどり着くために、彼は自分の寂しさや虚しさ、空白と向き合わなければならなかった。
ここまではまだわかりやすい(多少は)のだが、この小説の難しい部分は、ナカタさんのラインである。
上でナカタさんがうまく大人になることができなかった大人だと書いたが、ナカタさんはカフカ少年が大人になるための儀式としてのその冒険に重要な役割をもちながら、カフカ少年と直接相対する場面はない。彼は、見えない何かに導かれながら、しがない、アロハシャツ好きの名古屋人、ホシノ青年を巻き込み、「入り口の石」を開ける。その旅の中で、ナカタさんは途中で息絶え、ホシノ青年がナカタさんの代わりに、その「特別な場所」へと侵入しようとする「邪悪な概念」を退治することになる。
こうなると、ホシノ青年とカフカ少年の間には共有すべきものはない。ナカタさんには、少なくともその場所に関して共通点があるのだが。この部分がずっと謎だった。森の奥のその場所がカフカ少年が大人になるための、彼の心の奥だとするなら、なんでそこに侵入しようとするその概念を、その何ら関係性のない、些か村上春樹小説に不似合いなチャラチャラした青年が退治することになるのだろうと理解できなかった。
今回読み直して、この「特別な場所」はカフカ少年個人のものとして描かれたのではないのではないかと思った。
それは誰もが、人生のある段階で大人になるために、自分と向き合うために訪れないといけない場所なのだと思う。そこに侵入しようとする「邪悪な概念」は、子どもたちが大人になることを阻害している、悪しき社会的風習なり文化なり時代なり、そういったものを示しているのではないか。そういうものは、子供自身が向き合うべきものではない。それは、普通の大人の手によって、改めて検討され、「圧倒的な偏見をもって強固に」殺されないといけないものではないか。
そんなメッセージが含まれている気がする。ナカタさんは、自分自身がうまく大人になれなかった身として、普通のホシノ青年を導き、それを殺させた。
こう考えると、まとまりや筋がないように見えたストーリーが繋がる気がする。
この小説の最後に、カフカ少年はこの現実を生き抜く決心をする。「世界でいちばんタフな15歳」として。上のようにストーリーを改めて理解し直したとき、この結末に強く勇気をもらうことになった。村上春樹の小説は、ある部分で社会に対する諦観や嫌悪感が感じられるが、それでもそれと向き合おうという姿勢が感じられる。きっと、だから私は彼の小説をこんなにも何度も読むのだろうと思う。
私は、来年には30歳を迎える身であるが、今の自分の状況を強くカフカ少年と重ねて読んでいた。
私も今、遅ればせながら自分を定義し直している。父や母、育った環境によって、受動的に形成された私という存在に一区切りをつけ、自分自身が受け入れた自分として、この世界で生きていきたいと、色々なことを考えている。この世界で、自分自身を受け入れて生きていくことは、とてもタフなことだと思う。そこでは、メタフォリカルに刃が何度も突き立てられ、血が流される。それでも、この世界で、十分な影を纏って生きていくためには、私は私を自分の意志でしっかりと受け入れ、父や母や運命や宿命や環境や、そういったものから独立して生きていかないといけないのだと思う。
カフカ少年とナカタ老人の人生は、フィジカルではない場所でクロスした。そしてそれは、私の人生ともまた交わっている気がする。
とても勇気の出る物語だった。