こんにちは、RTです。
友人との会話をきっかけに、すごく久しぶりに村上春樹著「1Q84」を読んだ。日曜日から、空いている時間や、正直に言えば年休まで使って、計1657ページの世界に深く潜っていた。
村上春樹の小説を初めて読んだのは、確か大学1年か2年の歳だった。19、20くらいのときに「羊をめぐる冒険」を手にしたのが最初だと記憶している。
しかし、23歳で大学院に進学し、25歳で就職してからこの6年くらいはあまりその世界に浸っていなかった気もする。
となると、私が村上春樹作品を特に好んでいたのはたかだか3年くらいのことになるわけだから思ったより短い。
それはそうと、久しぶりに「1Q84」を読んだわけである。
確認してみたらBOOK1が30刷2010年12月25日とあったので、初めて読んでから9年ほどは経つようだ。しかし、十年一昔というが、全くそんな気はしない。光陰矢の如しというのとも違い、長いも短いもなく、ただ気がついたら過ぎていた感じに思う。
それからもたぶん、たまに本棚かあるいは床か机の本の山というか塔というかから引き抜いて、要所要所をかじっていた気はするのだけど、頭から尻まで、しっかりと読みきったのはこれが2回目だと思う。
1回読んでいたので、すでに話の印象は頭にあった。月が2つある、1984年とは違う1Q84年の世界が舞台の話。すごくシンプルだし、これだけ聞いても読もうという気にはならないかもしれない。だけど、個人的には、そのすごくシンプルで同時に不可解な世界観をとても気に入っていた。
空には月が二つ浮かんでいた。小さな月と、大きな月。それが並んで空に浮かんでいる。大きな方がいつもの見慣れた月だ。満月に近く、黄色い。しかしその隣りにもうひとつ、別の月があった。見慣れないかたちの月だ。いくぶんいびつで、色もうっすら苔が生えたみたいに緑がかっている。
村上春樹「1Q84」BOOK1 第15章
先日、スタインベック著「怒りの葡萄」を読んだという記事を書いたときにも記したが、小説を最後まで読みきれるか否かはその世界にどれだけ没入できるかによる。
その点、「1Q84」については、9年前も現在も、その月が2つ並ぶ世界にとても深く潜ることができた。潜りすぎて少しばかり疲れたけど。
青豆と天吾という、2人の30歳になる男女の物語が交互に語られながら物語は進む。
ところで、こういうブログで「ネタバレ」をどう扱うか迷ったのだけど、このブログにはこのブログの目的があるので、とりあえず考えないことにしたい。もし結果的にネタバレになっていたら申し訳ないが、そういう配慮はない文ということで悪しからず。まあ、必要のない具体的な内容まで書くような無粋な真似はそもそもするつもりはないのだけど。
それはそうと、主人公の2人は、10歳の時に共有したほんの短い時間をきっかけに、深い愛で結びつけられている。お互いに積極的に求めたことはなく、どこで何をやっていて、どんな大人になったかもわからないが、心の深いところにずっと変わらずに互いへの愛があり、それが2人を導き、 巡り合わせる。2人は、2つの月が照らす1Q84年の世界を抜け出し、元の、月が1つしかない世界に戻る。
月はひとつしかない。いつも見慣れたあの黄色い孤高の月だ。ススキの野原の上に黙して浮かび、穏やかな湖面に白い丸皿となって漂い、寝静まった家屋の屋根を密かに照らすあの月だ。満ち潮をひたむきに砂浜に寄せ、獣たちの毛を柔らかく光らせ、夜の旅人を包み護るあの月だ。ときには鋭利な三日月となって魂の皮膚を剥ぎ、新月となって暗い孤絶のしずくを地表に音もなく滴らせる、あのいつもの月だ。
村上春樹「1Q84」BOOK3 第31章
村上春樹の小説で私がいつも惹き込まれる1つの理由は、なんというか、物語のなかで描かれる、普通の世界から少しだけ位相がずれた世界だと思う。月が2つあるとか、羊男とか(「羊をめぐる冒険」・「ダンス・ダンス・ダンス」)、空からイワシとアジが降ってくるのを予言するおじさんとか(「海辺のカフカ」)。
1Q84のなかでも、主人公(男)の天吾がつぶやいていた。
「原因と結果がどうしようもなく入り乱れているみたいだ」
村上春樹「1Q84」BOOK2 第22章
村上春樹の作品に惹き込まれるのはこれだと思う。ロジックが成立しない世界。一見すると普通の世界でありながら、何か自分のいる世界の理に反したことが描かれる。それらは、いわゆるロジックの外にあり、いくら現代文の読解問題のように論理的に読み解こうとしても読み解けない。
人によってはこの部分に、不快感とか違和感とか物足りなさを感じるのかもしれない。説明不足とか不要に婉曲な表現とか。まあ、そのあたりは好き嫌いなんだろう。今回読んで改めて思ったが、私はそういうのが好きなようだ。
先ほど、「2人の30歳になる男女の物語が交互に語られながら物語は進む。」と書いた。BOOK2まではこれで間違いないし、大筋の主人公はこの2人だ。だが、BOOK3になると、物語にはもう1つ、新たな視点が加わる。それが、牛河という男だ。牛河は登場自体はBOOK2で、主人公に忍び寄る不穏な影、というような役柄で描かれる。
牛河は背の低い、四十代半ばとおぼしき男だった。胴は既にすべてのくびれを失って太く、喉のまわりにも贅肉がつきかけている。しかし年齢については天吾には自信が持てない。その相貌の特異さ(あるいは非日常性)のおかげで、年齢を推測するための要素が拾い上げにくくなっていたからだ。(中略)歯並びが悪く、背骨が妙な角度に曲がっていた。大きな頭頂部は不自然なほど扁平に禿げあがっており、まわりがいびつだった。(中略)扁平でいびつな頭のまわりにしがみつくように残った太い真っ黒な縮れ毛は、必要以上に伸びすぎて、とりとめなく耳にかかっていた。その髪のありようはおそらく、百人のうちの九十八人に陰毛を連想させたはずだ。
村上春樹「1Q84」BOOK2 第2章
すごい見た目。が、脇役として、であればこういう役柄も必要なのだろうと思う。しかし、BOOK3ではこの男が主観をもつ第3の主役として扱われる。読みすすめると牛河の生き方にどこか自分を重ねるところもある。意に反して、青豆と天吾のロマンスを叶えるキーパーソンとなり、死んでいく。青豆、天吾と同じく満たされない幼少期を過ごす。しかし、結ばれる2人とは違い、舞台からおりる最後の最後まで孤独。
この物語のなかで、なぜ彼も主観をもつ必要があったのだろう。なぜ彼も、2つの月を認知できたのだろう。彼の最後の描写は何を示しているのだろう。
登場人物としては、すごく魅力的だ。
もう一度、マクロな視点に戻る。
物語の中で一貫したテーマとなるのは、10歳の少女と少年が共有したひとときだ。その、端から見た些細な交流が2人にとってかけがえのない愛となる。2人は、大人になり、性的な経験もしているが、愛と呼べるものはそれ以外にない。
正直、私はこの部分にはうまく馴染めない。どちらかというと牛河みたいな生き方をしてきた私には、少年時代に何かを分かち合って、それが今もきれいな思い出になっている相手はいない。好きな異性は人生のなかでもいたが、それは、私がその人たちを好きである、というだけの話でこういう素敵な相互作用のようなものはなかった。
個人的に、人を愛することについては、少し考えてみる必要があると思う。
とにかく、物語はある種のラブロマンスだ。あまりにも深く不自然なくらい清らかな2人の感情がとても印象的だった。
あと、この小説は他の小説の引用が多いのも特徴だと思う。
タイトルにもなっているジョージ・オーウェル「1984年」の結末は、たぶん私が人生で読んできた小説のなかで一番後味が悪かった。
チェーホフ「サハリン島」は読みきるのは少し堪えるが、どこをとっても興味深い。
短篇が引用されている内田百閒を辿ったら「ノラや」というとても素敵な本に出会った。
そういう面白さもある。
最後に、一度目に読んだときから印象だったのが次の文。
肉体こそが青豆にとっての聖なる神殿だったし、常にきれいに保っておかなくてはならない。塵ひとつなく、しみひとつなく。そこに何を祀るかは別の問題だ。それについてはまたあとで考えればいい。
村上春樹「1Q84」BOOK1 第15章
こういう細かい表現にはっとさせられることが多いのも村上春樹の作品の特徴に思う。
今回、1Q84についてはマクロな視点での感想がメインになっているが、村上春樹の小説の面白さは、一文一文の表現にもあると思う。なので、短編がなかなか気持ちよく読めると思う。
私が好きな短編はいくつかあるが、「納屋を焼く」と「パン屋再襲撃」が特に好きだ。「納屋を焼く」は韓国で映画化され、国際的な賞を受賞した。短篇とは趣が異なるように思ったが、映画としてはなかなか面白かった。
せっかくなので、パン屋再襲撃の中で好きな一文を引用する。日常会話に落とし込むと、「やばい。信じられないくらい腹減った。」くらいだろうか。
特殊な飢餓とは何か?
僕はそれをひとつの映像としてここに提示することができる。
①僕は小さなボートに乗って静かな洋上に浮かんでいる。②下を見下ろすと、水の中に海底火山の頂上が見える。③海面とその頂上のあいだにはそれほどの距離はないように見えるが、しかし正確なところはわからない。④何故なら水が透明すぎて距離感がつかめないからだ。
村上春樹「パン屋再襲撃」(短篇選集1980-1991 象の消滅 収録)